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光林寺は大宝元年(701)文武天皇の勅命を受けた徳蔵上人によって、光林寺の南約7Kmの奈良原山山頂にあった蓮華寺と共に開かれた。徳蔵上人は第十五代応神天皇の御世に来朝された弓月君(ゆづきのきみ)の子孫と伝えられ、法相宗(ほうそうしゅう、奈良の興福寺と薬師寺を大本山とする)と、三論宗(さんろんしゅう、現在は東大寺に伝わる)を修めた大徳であったので、開山当初より約百年間程は法相宗と三論宗の二宗兼学の寺であった。光林寺の住持、圓職上人代の大同元年(806)唐より帰国途中の空海上人(弘法大師)が、奈良原山の蓮華寺に登られて密教の修法をされた。また、空海上人(弘法大師)は光林寺にしばらく止住されて密教を伝授されました。これより後、光林寺は法相・三論兼布の寺であったのを密教弘通の真言宗の寺となったと伝えられている。
天長3年(826)空海上人(弘法大師)の奏聞に因り、淳和天皇の勅願として堂塔の建立が開始され、佛閣が整備される事になりました。5年の歳月をかけ天長7庚戌年(830)3月、本堂・金堂・庫裏・客殿・多宝塔・鐘楼堂・仁王堂が完成し、四十九院の根本道場となった。天禄3年(972)回禄の変によって一時灰燼に帰したが、長久3年(1042)後孔雀天皇の勅願により伊予守源頼義公の奉行をえて堂塔の再建が図られた。四十九院は十二坊として再興され、新たに薬師堂も建立された。現存する仁王堂は源頼義公によってこのときに建てられたもの。これらの十二坊は、この後規模を大きくしながら南北朝時代まで法灯が続いたもようなものだ。永禄元戊年(1558)には、河野伊予守四郎通直公により旧慣を尋ねて堂塔の修復がなされました。元禄十四年(1701)には、光林寺開山一千年に当たり、今治城主松平駿河守定陳公によって新たに本堂が再建されました。これが現在の本堂である。
光林寺は、特に南北朝時代の大波、明治初めの神仏分離の大波などを受けながら、1300年の歴史を歩んでいる。
薔薇や桜など植栽されている。又ごみ置場水まわりなど近くに設置されトイレもきれいな所。
日当たりは良くて、景色はいい。季節によっては、お花がきれいでいい
山の中の静かなお寺です。去年、墓園とは別に納骨堂が完成しました。
光林寺の地図、最寄り駅や交通アクセス、霊園の施設に関する情報をご案内します。
JR予讃線 伊予富田駅
JR予讃線 今治駅
JR予讃線 大西駅
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