森蘭丸 信長とともに舞い飛び、散り去った若き鶴

森蘭丸の家紋

鶴の丸(森家)

森氏の家紋は「鶴の丸」といわれています。

鶴紋は、千年生きるといわれた長寿のシンボルであるツルを文様化しています。

文様としては平安期にすでにみられ、とくに鏡の装飾に多く用いられたようです。身近な文様が、やがて家紋となっていったのでしょう。

小姓として有名になった稀有な人物

森蘭丸

森蘭丸は、織田信長お気に入りの小姓としてそば近くで仕え、本能寺で最期をともにした人物です。なお、一般的に知られている「蘭丸」は通称で、本名は成利といいます。

蘭丸の家は信長の父・信秀の代からの家臣でした。蘭丸の父・可成は織田軍を代表する武将のひとりで、信長にも重用されました。ですが、蘭丸が6歳のときに討ち死にしてしまいます。

跡を継いだ兄・長可はわずか13歳、その下に蘭丸を含めて4人の弟がいました。信長は、この兄弟を手厚く処遇しています。長可は父の所領を継ぎ、蘭丸は13歳で弟たちとともに信長の小姓となりました。

小姓とは主君のそばに仕える少年のことで、平時は秘書、戦時はボディーガードのような役割を果たしていました。さらに主君の食事の世話や身支度の手伝いといった、私的なサポートもこなします。

そのため小姓は、一流の作法と幅広い知識、そして武芸を身に着ける必要がありました。

気配りができ、主君の意向をくみ取れる勘の良さも必要だったでしょう。蘭丸には、そうした器量が十分にあったようで、有能な彼は信長に気に入られていました。

領地持ちの小姓、本能寺に倒れる

そんな蘭丸は17歳のとき、信長から近江500国を与えられます。さらに「甲州征伐(1582年)」の勝利により、長可が武田氏の旧領の一部を与えられたことから、それまで兄が治めていた領地も与えられました。

これにより、蘭丸は小姓でありながら大名に出世したのです。

しかし同年、「本能寺の変」が起こります。このとき信長とともに本能寺にいた蘭丸は、そば近くで奮戦しましたが、2人の弟とともに討ち取られたと伝えられています。享年18歳、あまりに短い生涯でした。

なお、弟たちを失ってしまった長可は、豊臣秀吉側につくなどして家の存続に腐心しました。しかし、弟たちの死から2年後、「小牧・長久手の戦い(1584年)」で命を落としてしまいます。

その跡は、末っ子の忠政が継ぎました。彼もまた信長の小姓でしたが、「本能寺の変」前に母のもとに帰っていたため難を逃れています。忠政はのちに、美作(岡山県)津山藩の初代藩主となりました。

主君を立てる気配りの達人

小姓として有能だった蘭丸。主君を立てることにかけても右に出るものはいなかったようで、そう思わせるエピソードがいくつか残されています。

ある日、信長が蘭丸に「ふすまが開いているから閉めてこい」といいました。ところが、蘭丸が行ってみると、ふすまは閉まっていました。そこで彼は、そのふすまを一度開けて閉めます。

主君の勘違いを、ほかの家臣に知られないようにする、それが理由でした。

またある日、蘭丸がみかんを運んでいると、信長から「そんなにたくさん運んでいると転ぶぞ」といわれました。その後、蘭丸は本当に転んでみかんを落としてしまいました。

こちらは、主君の発言が偽りとならないように転んだ、というものです。

主君を立てる男・蘭丸。その徹底した対応もまた、信長から気に入られた理由のひとつだったのではないでしょうか。

森蘭丸のお墓

森蘭丸のお墓はいくつかあります。

森氏の菩提寺・可成寺(岐阜県可児市)には、「本能寺の変」で亡くなった蘭丸と2人の弟のお墓があります。長可が、父・可成の菩提を弔うために創建したお寺で、寺号がその父の名となっています。

可成寺の墓

また、阿弥陀寺(京都市上京区)にも3兄弟のお墓があります。こちらは信長と縁の深いお寺で、彼やその嫡子・信忠のお墓、「本能寺の変」で犠牲になった人々の供養塔も建てられています。

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