宇喜多の剣片喰、八丈島に根付く 秀吉に寵愛された宇喜多秀家

宇喜多秀家の家紋

剣片喰(宇喜多家)

宇喜多氏の家紋は「剣片喰」といわれています。

片喰紋は、カタバミの葉をかたどった紋です。

平安期から文様として親しまれていたものが、後に家紋になりました。カタバミは繁殖力が旺盛で、その点が子孫繁栄に結びついて多くの武家に家紋として用いられました。

秀吉のお気に入り・新参者の外様大名

宇喜多秀家

宇喜多秀家は、父の病死によって10歳で家督を継ぎました。宇喜多氏は織田信長に臣従しており、この頃、豊臣秀吉による中国地方攻略が行われていました。

幼かった秀家は、秀吉の軍に組み込まれたといいます。このときの働きで備中(岡山県西部)の半分と美作(岡山県北東部)を手に入れて、さっそく大大名の仲間入りを果たしました。

父の代からの家臣たちに支えられ、当主の仕事に励んでいたのでしょうか、秀吉はそんな秀家を寵愛していました。

その様子は、元服の際に「秀」の字を与えていることや猶子にしたこと、そして養女・豪姫(前田利家の娘)と婚姻させたことなどからもうかがえます。

このように、新参者の外様でありながら重用された秀家は、各地の戦に参加して功績を挙げていきました。やがて五大老にも選ばれるのですが、このときなんと27歳。他のメンバーが上は61歳(前田利家)から下は44歳(上杉景勝)と、父親のような年齢ばかりです。秀家が有能であったのはもちろんのこと、いかに秀吉に気に入られていたかが見てとれます。

八丈島へ流罪となった西軍の将

そんな秀家ですから、「関ヶ原の戦い(1600年)」では西軍の主力として戦いました。しかし西軍は敗れ去り、宇喜多氏は改易(領地を没収されること)、秀家は流罪に処されます。

当初、秀家は敗走して、薩摩国・島津氏を頼ったそうです。しかし、人の口に戸はたてられなかったようで、「島津が秀家を庇護している」と噂になってしまって出頭。

打ち首になってもおかしくない状況でしたが、ここで前田家という助けが入ります。そう、妻・豪姫の実家です。前田家の口添えにより、秀家は八丈島への流罪となったのでした。

八丈島では、前田家や旧臣たちの援助によって暮らしていたようです。その暮らしは不自由ではあったようですが、島の水が合ったのか、ストレスフリーになったのか、50年を過ごして84歳で亡くなりました。世は江戸時代、将軍は4代・家綱となっていました。

関ヶ原に参加した大名の中ではもっとも長く生きたそうで、それが敗軍の将というのも歴史の面白さかもしれません。

なお、秀家の息子たちも八丈島へ流罪となっています。そして、現在も子孫の方々が島に住み、お墓を守るなど血脈をつないでいるということです。

宇喜多秀家のお墓

宇喜多秀家のお墓は、配流先の八丈島にあります。

八丈島の墓

そのほか、東光寺(東京都板橋区)に供養塔があります。ここは明治時代に赦免された秀家の子孫たちが、前田家の下屋敷跡に住んだときに建立したものです。

また、妻・豪姫の菩提寺・大蓮寺(金沢市)にも供養塔があります。

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