大内義隆 先祖が渡来人であることを家紋で表現 下剋上で滅亡した西国の覇者

大内義隆の家紋

大内菱(大内家)

大内氏の家紋は「大内菱」といわれています。

花菱紋は、ひし形を分割して4つの花弁に見立てた家紋です。大内氏のものは唐風にした「唐花菱」ですが、これは渡来人の多々良氏を祖先としていることに由来します。

大名や武将の家は、源氏や平氏、藤原氏といった由緒ある家を先祖と称することが多いのですが、大内氏はその点で珍しい家です。

名門大名家、下剋上に散る

大内義隆

大内義隆は、中国地方の名門・大内氏の16代目当主でした。

大内氏は周防国(現在の山口県)の地方官僚から守護大名になり、戦国大名へと成長した家です。義隆の時代で最盛期を迎えて、中国地方と九州の一部の7国を領するまでになります。

義隆は、父の代から築かれた領地に加え、大陸との独占貿易による莫大な富も有していました。あの毛利元就を配下に加えていた時期もあり、向かうところ敵なしといったところ。

その順調な道が崩れるのが、出雲国(現在の島根県)・尼子氏との「月山富田城の戦い(1542年)」でした。

この戦いで大内軍は、尼子軍のゲリラ戦法と味方の寝返りによって大敗を喫します。さらに、養嗣子の晴持を失ってしまったのです。

彼を寵愛していた義隆は、ショックのあまり領土拡大や領国経営といった仕事を放り出して、かねてから関心のあった公家文化にのめり込んでいきます。

文化的な関心の強い武将はほかにもいますし、それが駄目だということではありませんでしたが、義隆の場合、それまでが嘘のように戦ごとにはまったく関心を示さなくなってしまったようなのです。

そして、これまで彼を支えてきた武断派の家臣たちをわきに追いやり、文治派を重用するようになりました。これを不服とした重臣・陶晴賢は謀反を決行。義隆は自害に追いやられてしまいました(大寧寺の変/1551年)。

義隆の寵童だった陶晴賢

義隆の重臣であり、その堕落をよしとせず兵をあげた陶晴賢。陶氏にとって、大内氏は本家であり、代々仕えてきた主君にあたります。

晴賢ももちろん大内氏に仕えますが、美少年で知られた彼は義隆の寵童としても重用されていました。そのエピソードから柔和な人物が想像されるかもしれませんが、歴戦の武将で武断派の代表的人物でもありました。

寵童だったことから、謀反の理由に「義隆の愛が自分から離れてしまった」という過剰なヤキモチ説があります。

ですが、勇将だったことも考え合わせると、文治派との対立もさることながら、代々仕えてきた大内氏の零落を感じ取っていたのかもしれません。

晴賢は、「厳島の戦い(1555年)」で毛利元就に倒され、その生涯を終えます。義隆の時代にはともに戦ったこともあった両人は、いずれも義隆から離れる選択をしましたが、その生涯はまったく違ったものになったといえるでしょう。

ちなみに、晴賢という名は義隆を討ってから名乗ったもので、それ以前は「隆房」といいました。もちろん、義隆から「隆」の字をもらってのことです。

大内氏によって山口に開いた公家文化

大内氏は、代々文化的関心の高い当主の多い家でした。義隆もその例にもれず和歌や連歌、芸能などの公家文化を好み、京都から公家や文化人を呼んでいたといいます。

のめり込むのは養嗣子の晴持の死後なのですが、それ以前から文化人大名ではあったのです。

晴持を失ってからの義隆の行動は、戦国大名として致命的なものではありましたが、一方で山口を「西の京」と呼ばれる文化の都にしています。こうして築かれた大内文化は、「西の京・山口」として現代まで伝えられています。

大内義隆のお墓

大内義隆のお墓は、大寧寺(山口県長門市)にあります。

大寧寺の墓

大寧寺は大内氏の菩提寺であり、陶晴賢の謀反にあった義隆が駆け込んだお寺です。ここで自刃した義隆は、冥府まで付き従った重臣とともに眠っています。

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