【墓マイラー】今なお世間に発破をかけ続ける熱海・医王寺の墓、池田満寿夫

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戦後を代表するマルチ芸術家として活躍

今回取り上げるのは、芸術家・池田満寿夫の墓。

池田満寿夫といえば、岡本太郎と並んで、戦後の日本芸術史に燦然と輝く存在で、版画や絵画に留まらず、彫刻、陶芸、文学、映画、テレビタレントなど、多岐にわたるジャンルでその才能を発揮した。

そんな池田満寿夫の墓は、終の棲家となった熱海にある医王寺という寺の墓地にある。

この墓地はちょうどJR熱海駅の裏山にあり、歩いて行くと結構、息が切れる。

墓地自体は日本中どこにでもあるような穏やかな場所なのだが、その中にある一基だけ目立つ黄金の彫刻を冠した墓、それが池田満寿夫の墓である。

その佇まいには、世間を挑発し続けた池田満寿夫の生き方そのものが表現されているように感じられる。

この墓を前にすると、「池田満寿夫の精神」はまだ、ここに生き続けているということが実感出来るのである。

波瀾に満ちた人生が才能を開花させる

さて、その池田満寿夫の人生を簡単にたどってみよう。

池田満寿夫は、その名前の通り、1934年に現在の中国瀋陽市、当時の満洲国奉天市に生まれた。

満寿夫という名前は、満洲で生まれた男の子を意味する「満洲男」から来ているが、両親が長生きしてほしいという願いを込めて「洲」の字を「寿」に変えたという。

幼少の頃は、父親は兵役についていたため、母親のみの環境で過ごしている。家はカフェを営んでいた。

終戦を迎え、満洲から引き揚げた池田一家は母の実家がある長野に引っ越し、父親が復員すると引揚者寮に移動。

そして、高校生の頃から絵画の勉強を始め、東京芸術大学を受験するが、3回もスベッてしまう。

その間、東京の盛り場の街頭で、似顔絵描きなどをして糊口を凌いだ時期もあったが、同時期に、十一歳年上の下宿先の娘と結婚。彼女は、池田満寿夫の才能を見込んで小金井に一軒家のアトリエを建ててあげたという。

パートナーによって作風も変化

その後、色彩銅版画を始め、東京国際版画ビエンナーレで文部大臣賞を受賞。

その才能は一気に世界に認められるようになるのだが、彼は糟糠の妻を捨て、詩人の富岡多恵子と駆け落ち。その後、ニューヨークに移住すると、今度はドイツ人と中国人のハーフの女性と入籍。芥川賞受賞作「エーゲ海に捧ぐ」を発表。

さらに声楽家の佐藤陽子と運命的な出会いをして日本に戻ってくることになるのである。

面白いことに、池田満寿夫の作品は、抽象からポップアート、そして日本回帰というように、パートナーが替わるたびに作風も変わっていった。

ところが、そのテーマは一貫して、女性のエロス。現代に比べるとまだまだ性表現が不自由だった昭和の時代。池田満寿夫の作品はその生き方とともに世間を驚かせ、時代を揺さぶり続けたのであった。

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