お葬式で知らされる故人との距離

去年、20年近くお世話になっていた整体の先生が亡くなった。とても悲しいでき事で、加えて、それを知ったのが亡くなってから約1ヶ月後だったことで、今でもこのことが心の中で宙ぶらりん状態だ。

毎月届けられる会報を放っておいた自分が悪いのはわかっている。到着後、日にちがたってから開いたそれには、「悲しいお知らせがあります。先生が逝去されました。」という文章が綴られていた。続けて、会を一旦閉めること、借りていた場所も引き上げること。そして、先生との「お別れ会」を開くことが告げられていた。日時は会報を見た日からちょうど1週間前。すでに終わっていた。

つまり大事な知らせをしばらく開封しなかったまぬけな私は、先生の死も知らず、「お別れ会」にも行けず、会への連絡手段も絶たれてしまった。突然判明した先生の死にショックを受け、さらにそんな事態を招いてしまったことで頭の中は真っ白になった。
故人とつながりを持つ人々が集まる機会があれば、ちょっとした想い出を語り合ったり、涙を見せたりもできる。そこに参加できないつらさを初めて味わった。

昨年末亡くなったジャーナリストの筑紫哲也さん。自宅で密葬後、都内のホテルで「お別れ会」が執り行われた。出席した友人のおすぎ氏がTVのインタビューに対し、「これでやっとあの方があちらへ往かれた、という気持ちになれました」のようにコメントしていた。

葬儀やお別れ会は、遺された人にとって、故人に別れを告げ、心の整理をつける場ともなる。

ところで近年、筑紫さんの場合のような「密葬」、または「家族葬」と呼ばれる、身内を中心に故人と親しかった人たちによる葬儀が志向される傾向がある。都心部と地方、地域により差があり一律には言えないものの、都内大手の葬儀社では、現在、「請け負う全体の約4割が家族葬」と聞いた。

家族葬では、一般的には参列者を受け入れる告別式は行わず、故人や遺族の意思により招く人がある程度限定される。
例えば、今回のケースでいえば、私は、先生に長年体を診ていただいたという間柄になる。親しい友人ではなく、生前に少し接点があった、というぐらいの関係。それでも、家族葬のみで「お別れ会」のような自由参加型の儀式がなければ、私のように悲しみの持って行き場を失くす人も出てくるかと思われる。
しかし、お別れ会など開くまでもない現状もあることは確かだ。
ここ10年、家族葬が支持されるようになった背景には「高齢化」がある。亡くなった時点ですでに周りの知人や親戚が亡くなっていたり、地域社会のつながりも薄れていることで、葬儀も少規模化しているのだ。

こうした、一定の人間関係に止めた葬儀の台頭は、戦後、次第に式が高額化・形式化したことへの反動でもある。義理で足を運ぶ参列者も含め、200人、300人が集まるのではなく、少人数でも心のこもった儀式をという流れは悪くない。

家族葬には、顔が見える範囲で故人を丁寧に送りたい、という人々の意向が反映されているように思う。
その一方で、範囲を故人の近親者などに限ってしまうことにより、そこに「選ばれなかった」人間は故人との別れから疎外されてしまう恐れもある―。
去年の個人的体験からそんなことを感じた。

今回、お別れの儀式の意味を身をもって経験した。今後は、できれば先生のお墓に行き、手を合せることでけじめをつけたいと考えている。

お葬式で知らされる故人との距離()

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柿ノ木坂ケイ プロフィール

プロフィール

1964年生まれ。東京都立大学人文学部社会学科社会人類学専攻卒。タウン情報誌編集部を経てフリーライター。 3年前義母をなくし、お墓がない現実に直面。購入まで苦労したことがきっかけとなり、意外と知らなかったお墓について調べ、著書『間違いだらけのお墓選び』をまとめる。
現在、「明るくわかりやすくお墓を語る」をモットーに、消費者の立場から見た“お墓”についての講演や関連記事の執筆などで活動中。

【 著書 】

『間違いだらけのお墓選び-買ってわかったお墓事情あれこれ』
2005.11刊/情報センター出版局(1400円+税)

〔第1部:お墓購入ドタバタ体験記〕

年齢も趣味も違う家族が一つのものを買うのは大変なこと。
ましてやそれが“お墓”であればモメるのは当然?!著者と家族の笑える(?)お墓探しの日々を綴る。

〔第2部:お墓に関する49の基礎知識〕

誰もがいつかはお世話なるものなのに、よくわからないもの、それがお墓。その購入の実体験をもとに「これだけは知っておきたい」という知識をまとめた。イラストやフローチャート入りで“初心者”にも楽しくわかりやすく、お墓選びのツボを伝える。